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えっ? 佐々木小次郎にとどめを刺したのは宮本武蔵の弟子たちだった? - 「巌流島の決闘」の真実!

一般には、巌流島(がんりゅうじま)で行なわれた宮本武蔵(みやもとむさし)と佐々木小次郎(ささきこじろう)の決闘(けっとう)-いわゆる「巌流島の決闘(がんりゅうじまのけっとう)」-では、櫂(かい)を削って作った武蔵の木刀(ぼくとう)の一撃が小次郎を倒したということになっています。
しかしながら、最近の研究で、その時小次郎はまだ生きていて、その直後に武蔵の弟子たちがとどめを刺していたということが分かりました!
「巌流島の決闘」のイメージは小説家・吉川英治によって作られた
二刀流を編み出したことで知られる剣豪・宮本武蔵。
そして、秘剣燕返し(つばめがえし)の使い手・佐々木小次郎。
この2人が対決した「巌流島の決闘(がんりゅうじまのけっとう)」といえば、劇や小説、マンガなどにもたびたび描かれてきました。
1612年(慶長(けいちょう)17年)4月13日。
約束の時間に遅れてきた宮本武蔵は、自分の刀の鞘(さや)を海に投げた佐々木小次郎に、
「小次郎敗れたり!」
といい放ち、抜いた刀を戻すところがないのは、勝つ意志がないのと同じと皮肉ります。
そして、櫂(かい)を削って作った武蔵の木刀の一撃が、小次郎の脳天を砕(くだ)いて死に至らしめ、武蔵は巌流島をあとにします――。
こうした巌流島の決闘のイメージは、吉川英治(よしかわ えいじ、1892年(明治25年) - 1962年(昭和37年))の書いた小説・「宮本武蔵」に由来するものですが、この小説のそもそもの原資料となったのは、「二天記(にてんき)」という伝記です。
しかしながらこの伝記は、実は、宮本武蔵が亡くなってから、100年以上も後に書かれたものでした。
近年、細川家から巌流島の決闘を記した「沼田家記」が見つかる
ところが近年、巌流島の決闘を許可した細川家家老・沼田延元の業績を記した「沼田家記」が見つかりました。
これによれば、巌流島の決闘の仔細(しさい)は、以下のようだったといいます。
武蔵にやられた小次郎は、脳震盪(のうしんとう)を起こして気を失いますが、しばらくして息を吹き返します。
すると、師匠の果たし合いの現場を見にやって来た武蔵の弟子たちが、これは大変と、小次郎にとどめを刺したのです!
武蔵と小次郎の決闘の様子、今までの常識とは違う新しい史実です。
細川家は記録を大事にする家で、武蔵に関する記録は、現在細川家に伝わるものが唯一の公文書となっています。
大変衝撃的な内容ですが、これが本当とすると、話は大分変わって来ますね。
参考にしたサイト
巌流島の決闘 | 備後歴史雑学
http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page170.html

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カテゴリ:[雑学]