- category *
- Title list *
- RSS *
- Admin
夏目漱石は、「吾輩は猫である」のネコが死んだとき、4人の弟子に死亡通知を出した?

写真は、こちらからお借りしました。
明治時代の文豪・夏目漱石(なつめ そうせき、本名:夏目金之助(なつめ きんのすけ)、1867年 - 1916年)の書いた「吾輩は猫である」に登場する名前のない猫は、漱石の家で実際に飼われていた猫です。
そして漱石は、この猫が死んだとき、4人の弟子たちに死亡通知を出しています。
また、「吾輩は猫である」に登場する水島寒月には、モデルがいました。
「吾輩は猫である」の主人公の猫にはモデルがいた
この作品は、1905年(明治38年)から1906年(明治39年)に俳句詩「ホトトギス」に掲載されましたが、その前年に、夏目家に迷い込んできた黒猫がいました。
が、夏目漱石の妻鏡子は猫嫌い。すぐに追い出すのですが、何度追い出してもまた入ってきてしまいます。
そのうち、漱石の目にとまり、夏目家で飼われることになりました。
そしてこの猫が、「吾輩は猫である」のモデルとなったのです。
西洋では、黒猫は不吉の前兆といって嫌われがちですが、当時、夏目家に出入りしていた按摩(あんま)のおばさんは、
「体だけでなく爪まで美しい猫だから、飼っていれば家が栄える」
といったそうです。
この予言は見事に当たり、「吾輩は猫である」はベストセラーとなりました。
「吾輩は猫である」執筆当時の邸宅=旧居跡(文京区向丘2-20-7)にある猫の像

写真は、こちらからお借りしました。
漱石は、猫が死んだとき弟子に死亡通知を送った
さて、モデルとなったこの黒猫は、「吾輩は猫である」の俳句詩への掲載が終了した2年後の1908年(明治41年)9月13日の夜に、若くして死んでしまいましたが、翌日、漱石は4人の弟子たちに、次のようなハガキを送っています。
「辱知(じょくち)猫儀久々病気の処 療養不相叶(あいかなわず)昨夜何時の間にか、裏の物置のヘッツイの上にて逝去致候。但し、主人『三四郎』執筆中につき、御会葬には及び不申候(もうさずそろ) 以上。九月十四日」
文豪らしく、「執筆中につき……」とはいっていますが、死亡通知を出すほどだったということは、夏目漱石は結構猫好きだったのかも知れませんね。
この黒猫は、裏庭に埋葬されましたが、最後まで名前はなかったようです。
その後、妻鏡子は、毎月13日を猫の月命日とし、その日には、鮭の切り身と鰹節飯を欠かさずお供えしたといいます。
猫が死んだときの様子は「漱石の思い出」に詳述
猫が死んだときの様子に関しては、「漱石の思い出」の中に、以下のように書かれています。
「死ぬ前などにはたべものをもどすやら、いったいにしまりがなくなっていて、子供の蒲団といわず、客用の座蒲団といわず、ずいぶん汚したものでしたが、いつの間にやら見えなくなったかと思ってるうちに物置きの古いへっついの上で固くなっておりました」
「吾輩は猫である」の登場人物・水島寒月は「寺田寅彦」がモデル
ちなみに、夏目漱石の弟子の1人に寺田寅彦(てらだ とらひこ)がいますが、彼は「吾輩は猫である」に出てくる理学士、水島寒月のモデルとなった人物です。
夏目漱石は、寺田寅彦に宛てたハガキの中で、
「・・・時に続々篇には寒月君に又大役をたのむ積りだよ」
と書いています。
- 関連記事
-
カテゴリ:[雑学]